2017年06月01日

1、サウムの義務(続き)

ムスリムたちも当初、眠った後は飲み食いが禁じられていた。それはカイス・ブン・スィルマ・アル=アンサーリーに出来事が起こるまで続いた。

カイスはラマダーンの昼間働き、夕方疲れ果て帰宅し、妻がイフタールの食事を出してくれるのを待っていた。妻が食事を運ぶために席を立つと、彼はあまりの疲れの為に眠ってしまった。妻が戻ってくると、夫は眠っている・・・妻は夫に「なんという大損でしょう!」と言った。

何故、大損なのだろうか?
何故なら、(眠ってしまった為)彼はその食事を決して食べられないのだ。

実際、彼はその用意されたイフタールでサウムを解くことが出来ず、翌日もまた、サウムを続けていた。
彼は前日からサウムしたまま職場に向かい、仕事をしていたが、疲労困憊のあまり気を失ってしまった。

((وعسى أن تكرهوا شيئا وهو خير لكم))(2:216)
((فعسى أن تكرهوا شيئا ويجعل الله فيه خيرا كثيرا))(4:19)

この事が預言者(彼に祝福と平安あれ)に伝わった時、次のアーヤが下った。

((وكلوا واشربوا حتى يتبين لكم الخيط الأبيض من الخيط الأسود من الفجر))(2:187)

こうして私たちはファジュルになるまでは飲み食い出来るように、また預言者(彼に祝福と平安あれ)のハディース「我々のサウムと啓典の民のサウムの分かれ目はサハル(ファジュルの前)の食事である。」にあるようになった。

啓典の民がサフールを食べないように、私たちも以前は食べなかった。その後、私たちのサウムと啓典の民のサウムに分かれ目が出来たのである。
預言者(彼に祝福と平安あれ)は啓典の民との違いを顕著にすべく、「サフールは祝福された食事である。」や「あなた方の誰でもサフールを放棄してはならない。たとえ水を一口飲むことによってでも。」のハディースにあるようにサフールを食べることを奨励した。

サフールは夜の一番最後、ファジュルの直前の食事なので、夕食とは異なる。
預言者(彼に祝福と平安あれ)がサフールを終え、ファジュルのサラーに立つまでの時間は50アーヤ分の長さだった。

私たちが注目すべきは、サハーバたちが昼も夜もクルアーンとともに過ごしており、時間を測る目安が「この時間内にどれだけのアーヤを読むことが出来るか」というクルアーンの読誦によるものであったことだ。まさに彼らこそ至高のアッラーが彼らに満足し、彼らもアッラーに満足する「クルアーンの民」だったのだ。

サフールとは、祝福された食事であり、啓典の民との相違点でもあり、預言者(彼に祝福と平安あれ)のスンナに従うことでもあり、食べ物とはいえ、アッラーに近づく為のものなのである。

また預言者(彼に祝福と平安あれ)は「アッラーとかれの天使たちはサフールを摂るものたちを祝福する。」と仰られた。
アッラーは彼らに慈悲を垂れ、彼らを褒め、天使たちもまた彼らにドゥアーするのである。

サフールはイバーダであり、アッラーに近づく為の物なのだ。

 サウムに関するアーヤは
((يا أيها الذين آمنوا كتب عليكم الصيام كما كتب على الذين من قبلكم لعلكم تتقون))
(2:183)の「タッタクーン」に始まり、
((......كذلك يبين الله آياته للناس لعلهم يتقون))(2:187)
の「ヤッタクーン」で終わる。
最初のアーヤは「タクワー」に終わり、最後のアーヤも「タクワー」に終わるのである。

サウムはタクワーを学ぶ学校のようなものなのだ。
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2017年05月31日

1、サウムの義務

あらゆるイバーダの受け入れられる条件とは、アッラーの教えに則り、ニーヤを「至高のアッラーのみに奉げる」と純化することである。

イバーダを行う時には、それに関連する法規定を学ぶべきである。それは自らが行ったイバーダが無効になるかもしれないという心配をなくし、そのイバーダをアッラーのもとで受け入れられるに相応しい状態にする為である。

サウムに関連するアーヤとして、
((يا أيها الذين آمنوا كتب عليكم الصيام كما كتب على الذين من قبلكم لعلكم تتقون))
(2:183)がある。

((يا أيها الذين آمنوا))
「信仰者たちよ」という呼びかけを聞いたならば、私たちムスリムは注意深く耳を傾けなければならない。その呼びかけの後に続くのが、イブン・アッバースの伝承のとおり「それを行うことが命じられる良いことか、禁じられる悪いこと」だからである。

サウムというイバーダを行う者は、このサウムの呼びかけが至高のアッラーからのものであるということを心に留めるべきである。それにより、その者の信仰は、「たとえ目に見えなくとも、あたかもアッラーを目前にしているかのように崇拝する、あなたの目に見えなくとも、アッラーはあなたを見ているのである」というイフサーンの段階に到達するのである。

預言者は仰られた:「ラマダーン月にその義務性を信じ、アッラーの報奨を願ってサウムする者は、過去の罪を赦される。」

サウムの義務は、啓示が下るとともに課されたものではない。ヒジュラ暦2年までサウムの義務化は遅れたのである。

ラマダーン月のサウムの前に義務付けられたのは、アーシューラーの日のサウムである。

預言者はこのアーシューラーの日のサウムを既にマッカで行っていた。その後、彼がマディーナにやって来た時、ユダヤ教徒たちがこの日にサウムするのを目にし、彼らに問いただすと、「この日は預言者ムーサー(彼に平安あれ)と彼の民がフィルアウンたちから救い出された日だ」と告げられた。すると預言者(彼に祝福と平安あれ)は「私たちのほうがユダヤ教徒たちよりムーサーに関する権利がある」と言い、人々にこの日のサウムを義務付けた。

ヒジュラ暦2年になると、このアーシューラーの日のサウムの義務は取り下げられ、替わりにこの日のサウムは行われるのが好ましく、1年の罪を帳消しにするものとして残った。
((ما ننسخ من آية أو ننسها نأت بخير منها أو مثلها))
(2:106)にあるように、アッラーはアーシューラーの日のサウムの義務を無効にし、ラマダーン月のサウムの義務というより良いものを命じられた。

その他の法規定と同様、サウムもそれが義務付けられるにあたって、段階を踏まえて義務付けられた。
最初、サウムはそれを行っても、それを解いてもよいものとして齎された。
サウムを解いた者は、貧者1人に食事を施せばよいとされた。
((وعلى الذين يطيقونه فديةطعام مسكين))
(2:184)

彼らはサウムすることが可能であるが、もしサウムしないのであれば、貧者一人に食事を施さねばならない。

その後サウムは次のアーヤによって完全に義務となった。
((شهر رمضان الذي أنزل فيه القرآن هدى للناس وبينات من الهدى والفرقان فمن شهد منكم الشهر فليصمه))
このアーヤが下った後にはサウムするかしないかの選択の余地はなくなり、ラマダーン月のサウムはイスラームの柱の1つとなったのである。

((كتب عليكم الصيام كما كتب على الذين من قبلكم لعلكم تتقون))
(2:183)

啓典の民にとって義務であったのと同様、あなた方にもサウムが義務付けられたとある。ムスリムのサウムは当初、啓典の民のサウムと同じやり方だった。彼らはサフールを摂っていたか?というと、答えは「摂っていなかった」だ。彼らはサフールを摂らず、もし眠ってしまったならば、その後に飲食物を口にすることは禁じられていた。

ムスリムたちも当初、眠った後は飲み食いが禁じられていた。それはカイス・ブン・スィルマに出来事が起こるまで続いた。
posted by ターリブルイルム at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | サウム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする