2013年07月02日

アル=バカラ章の考察 その4


アル=バカラ章が、「導きの法則」を私たちに教えてくれるのだということに私たちは気づきます。

「導き」は誰にやってくるのでしょうか?

「畏れる人々の為の導きである。」とあるとおり、「畏れる人々」にやってくるのです。

「畏れる人々」というのはどういう意味でしょう?

彼らはアッラーに服従し、かれの命令に応え、禁令で述べられたことを避ける者たちです。
彼らの心が真理に応え、彼らの肉体が善行によって命令に応える人たちです。

これに対し、「彼らにとっては同じである。あなたが彼らに警告しようとしまいと、彼らは信じないのである。」とあるように、この章は、その者の心が閉じられている、他の人々についても述べています。

彼らは不信仰者たちです。
何故彼らは信じないのでしょうか?

何故なら彼らの心は閉じられ、同様に、彼らの聴覚と視覚には覆いが被せられているからです。
これらの器官は、私たちに物事を理解させ、「理解」という段階に達する為に諸知識を心に送り込むパイプのようなものだと私たちは認識することができます。

ですが、それらのパイプが故障すると「彼らにとっては同じである。あなたが彼らに警告しようとしまいと、彼らは信じないのである。」という状態になってしまうのです。

恐らくあなたは、「それでは何故彼らが理解する為の方法が故障したのですか?」と尋ねるでしょう。

その答えは、彼らの心がそれを望んだから、ということです。
彼らの心は腐敗し、真理も導きも望まないのです。
ですから、彼らが導かれないように、アッラーは彼らの聴覚と視覚と心を故障させたのです。

至高なるアッラーはあなたの心が望むものに対し、あなたに同意を与えます。
あなたの心が真理を欲すれば、あなたをお導きになられ、そうでない場合には真理を聞かず、見ず、要するに理解しないことへとあなたを助けるのです。

それからこの章は他の人々について述べて、彼らの心が病んでいると描写しました。
それは偽信者たちの心で、彼らは不信仰者たちと同様に真理を欲せず、大地を汚し、信仰を表明し、裏では不信仰を秘めているのです。アッラーは彼らのことをお導きにならず、「導きで迷いを買い、彼らは利益を得ず、また導かれた者ではない。」のです。

つまり、人々の種類と導きに対する彼らの状況は次のようになるわけです。

1、畏れる者たち・・・導きは彼らのためにある。
2、不信仰者たち・・・警告は彼らに意味を成さない。
3、偽信仰者たち・・・彼らは導かれたものではなかった。

●では、これらのことを学んだ後の「私」の役割はなんでしょう?
「私」は自分の心が心理と導きへと向かうように努力し、導きの原因となることに身を委ねることです。つまりそれは「タクワー(畏れること)」で、命令を実行し、禁令で述べられたことを避けるということです。

あなたがそのようにしていて、アッラーがあなたが真理に向かっているのをご覧になれば、それこそが導きへの道であり、あなたに更なる導きをもたらすのです。

そして私たちは、自分たちの心が先に述べられたような反抗する心や病んだ心の持ち主とならないよう、気をつけねばなりません。
何故なら、そうである限り導きはそれらの者たちのものにはならないからです。

●さて、これら3種類の人々について述べた後の呼びかけに注目して下さい。
「おお、人々よ」アッラーは人々よ、それら「全人類よ」と仰られたのです。

それからアッラーは人々に何を命じられたのでしょうか?

『あなた方とあなた方以前の者たちをお創りになられた主を崇めなさい。』

そうすれば、あなた方はおそらくどうなると仰せられたのでしょうか?

「おそらくあなた方はわれを畏れるだろう。」

と仰せられました。

つまり、お導きの道でもあり、主を畏れる方法の一つでもあること、それは主を崇拝することなのです。


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2013年04月28日

アル=バカラ章の考察 その3


養育者が子供たちに、社長が社員達に、教師が学生達に、全ての統治者が民衆に最もして欲しい事は何だか分かりますか?

それが何なのか考えたことがありますか???

それは自分に命じられる義務を遂行する為に、服従・応答・帰依することです。

ある組織を想像してみて下さい。
そこのリーダーが、その組織にとって有益なことを命じましたが、スタッフたちは誰一人として彼に応えようとしません。
ある者は反対し、ある者は先送りにし、ある者は尊大に口論し、またある者は頑なに拒否する・・・そのような状況の組織はどうなってしまうのでしょうか?

私たちがアル=ファーティハ章でヒダーヤ(導き)を求めた後、真っ直ぐな道に導かれる為の方法を章の最初のジュズで顕著に見出すことが出来ます。

アル=バカラ章は、その導きの為の課程を紹介していく前に、章の最初のジュズでムスリムであるあなたに求められること、つまり全世界の主であるアッラーの命令に応え、服従することについて、話を繰り広げていきます。
最初のジュズで、5つの被造物と至高のアッラーの命令への応答・服従に関する彼らの状況が、私たちがそれらの例を通してアッラーに服従することの重要性を学ぶ為に述べられています。

●天使たち「サジダせよと命じられてサジダした。」

ところが

●イブリースは、「拒絶し、高慢で、不信仰の徒となった。」

●アーダムとハウワーは、「シャイターンが彼らを唆した。」それから「彼らは悔悟し、アッラーは彼らの悔悟を受け入れた。」

それから、

●イスラエルの民についていえば、アル=バカラ章の数々の節は、彼らの頑迷さ・彼らの大多数によるアッラーとその使徒への不服従・誤魔化し・計略その他の不服従の形を明らかにしました。

●イブラーヒーム(彼に平安あれ)は全世界の主アッラーへの命令に応じ、彼に服従することの模範的人物でした。「イブラーヒームの主が彼を御言葉によって試練にかけ、彼がそれを果たした」「主は彼に言った“帰依せよ”彼は言った“私は全世界の主に帰依しました”。」

さて、あなたがこれらを学んだ後、あなたの行為と主の命令へのあなたの対応はどのように変化するのでしょうか???

至高なるお方の御言葉を思い出して下さい。
「あなた方はアッラーに帰される日の為に、かれを畏れなさい。その時、各自が稼いだことは清算され、誰も不当には扱われないのである。」
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2013年04月26日

アル=バカラ章の考察(その2)


アッラーが「フダッリル=ムッタキーン」と、かれの御言葉の中で「ヒダーヤ(導き)」を約束した「ムッタキーン(畏れる人々)」たちの第一の性質とは、彼らが「ガイブ(不可視のもの)」を信じるものたちであったということです。

それは信仰は、2つの条件下でのみ、その信仰者を益するということです。

1つ目の条件は、それが不可視であること、つまり、あなたが信じているものは目に見えるものではないということです。

もし、私たちが天使たちを見ることが出来、彼らが私たちの行為を記録し、私たちの悪行を書き留めるのを目にしているのならば、私たちの信仰状態は異なったものであったでしょう。
私たちは善行を行うのに、より注意深くなり、悪行を行わないように、より警戒するでしょう。
ですがこれは、あなたの信仰が本物であるかを試す真の試練ではありません。

同様に、もし私たちがシャヤーティーン(シャイターンの複数形)を目にし、彼らが私たちを罪へとけし掛け、また私たちに悪行を行わせるためにそれを装飾して喜んでいる様子を目にしたのであれば、私たちは彼らをより警戒し、彼らへの不服従に一層の努力を払っていたことでしょう。

しかしながら、目に見えるものへの信仰は、私たちの信仰が本物であるかを試す真の試練ではありません。

あなたが不可視のものを信じているのであれば、あなたはアッラーを信じ、かれの天使たちの存在と彼らがあなたの行為を書き留めていることを信じ、天国と地獄の存在を信じ、預言者(彼にアッラーの祝福と平安あれ)と、彼が主のメッセージを確かに伝えたこと、そしてあなたには預言者に追従することが命じられているということを信じ、あなたの救いはクルアーンとスンナに則る事で、あなたがこれら2つのことにしがみ付いていないことにこそ損失があるのだと信じることです。

ですから、信仰とは不可視のものを信じるということなのです。

より分かり易くしましょう。

もしあなたが明かりのついている部屋にいて、あなたが人々に「これは明かりです。私はこれが明かりだと信じます。」と言ったとします。
周りの人々はあなたに、「あなたがその明かりを信じるのは当然でしょう。それはここにあって、あなたも私たちもそれを目にしているのですから。だから何だと言うのですか?!」と言うでしょう。

ですが、もしあなたが「私は天使たちの存在を信じ、彼らが私の行為を書き留めていることを信じます。」と言い、あなたにも私たちにもそれらが見えないということは、私たちが、ただクルアーンとスンナで述べられた情報を通してのみそれらを信じているのだということになります。そしてこの目に見えないものの信仰こそが、あなたを益するのです。

あなたの信仰があなたに益をなす2つ目の条件は、それがあなたの自由意思によるものだということです。

あなたが自由意志でアッラーとかれの天使たち、かれの預言者たちとかれの諸啓典と、アッラーがあなたにそれを信じよと命じたことを信じているということで、例えば何がしかの罰から身を守るために、強制的に仕方なく信じているのではないということです。

ですから、彼の人生の終わりに溺れて「私は信じた。イスラエルの民が信じた神以外に神はない。私はムスリム(帰依するもの)である。」と言ったフィルアウンの信仰に、アッラーは、『なんと、今信仰するのか。少し前まであなたは反抗していた。結局あなたは犯罪者の仲間であった。』と仰せられたのです。

この信仰は彼の役には立ちませんでした。

何故なら信仰の2つの条件が欠けていたからです。

彼は不可視のものを信じたわけではありませんでした。
彼はその時、罰を下す天使たちと罰を目にし、その為、彼は罰への恐れから仕方なく信仰したのです。

実際、あなたがクルアーンとスンナにしっかりとしがみ付けば付くほど、不可視のものへのあなたの信仰は増し、それによってあなたは、より多くの善行に励むようになり、そして悪行をより避けるようになり、そうしてあなたは成功者となるのです。

信仰の差とは、つまり私たちの間の行為の差なのです。
私たちの中で、クルアーンとスンナに、より則っている者は、不可視のものをより強く信じていて、そうでない者は、よりそれらへの信仰が弱いということです。

アッラーが私たちを有益なものとし、私たちの信仰心をより増やしてくださりますように。

(筆:熟考グループ)
posted by ターリブルイルム at 06:03| Comment(0) | TrackBack(0) | アル=バカラ章の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする