2017年06月13日

5、旅行者

イスラーム、理性、成人がサウムが義務付けられる条件だということは既に話した。

そして、4つ目の条件は、滞在である。
旅行者にとって、サウムは義務ではない。
その典拠は以下の通りである。

((ومن كان مريضا أو على سفر فعد من أيام أخر))
(2:185)
つまり、サウムしなかったならば、後で別の日にその分だけサウムするということである。

このアーヤの意図するところは、イブン・ハズム(アッラーのお慈悲がありますように)が「至高のアッラーは、旅行者の義務は、別の日にその分サウムすること。」だと仰られた。」と述べたように、「旅行者はサウムしてはならない」ということではない。これは間違いである。何故なら、預言者(彼に祝福と平安あれ)が旅行時にサウムしたからだ。このことは、旅行者のサウムの正当性を示している。また預言者の教友たちも旅行時にサウムしていたからである。彼らの中には、サウムする者たちもサウムしない者たちもいた。

アナスは言っている:
「サウムする者はサウムしない者たちを否定してはならない。またサウムしない者がサウムする者を否定してはならない。」

スンナは旅行者のサウムが合法であることを示している。
アーヤの意図するところは、「旅行者はサウムを解くことが許される。そしてもしサウムを解いたら、後でカダーが義務付けられる」ということである。

サウムを解くことが出来る「旅行」とは、サラー(礼拝)を短縮する旅行のことでもある。

大多数の学者は、それを80km以上の距離がある旅行としているが、その距離はどこから計算するのだろうか?
家からだろうか?

答えは「否」である。

旅の距離は村や町の境界線(建物が無くなって、人が居住していない空間が出てくる場所)を過ぎてから次の村や町の境界線に到着するまでを計算する。
つまり、町の境界線を過ぎたら、そこから80kmを測るのである。目的地である町の境界線までの距離が80kmいじょうであれば、サラーを短縮し、ラマダーンにはサウムを解いてよい事になる。
この旅行に関しての詳細の幾つかにおいて、学者間で見解の相違がある。

旅行者がサウムを解くことが出来る条件とは、その旅行が「サウムを回避するために行われるもの」でないことである。
そのようなニーヤ(意図)で旅行する人の旅行は禁じられる。その旅行でサウムを解くのも禁じられた行為となる。もしこのサウムを回避する為に旅行するのであれば、その者は罪を犯すことになり、またその旅行でサウムを解いたならば、それもまた罪となる。
しかし、もしそれ以外の目的のための旅行であれば、サウムを解く事が許される。

例えば、仕事上、常に旅行が付きまとう人、・・・長距離トラックや長距離バスの運転手などであれば、サウムを解いてもよいのだろうか?
サウムを解いてもよいのである。
たとえラマダーン中1ヶ月ずっと旅行中であっても、旅行者である限り、それは許され、後にカダーを行えばよいのである。
そして例えばラマダーンが夏だったとしても、冬にカダーを行ってもよいのである。また、旅の交通手段が、徒歩であろうと、バスであろうと、自動車や電車であろうと、また飛行機であろうと、旅行者である限り、サウムを解く事が許されるのである。

しかしながら、旅行の法規定が当てはまるのはいつからだろうか?
旅行者は自分の家からサウムを解き、サラーを短縮するのだろうか?

答えは「否」である。

先に述べた町の境界線を過ぎて初めて旅行者の諸規定がその旅行者の権利となるのだ。

つまり、もし飛行機の離陸時間が2時だとしたら、「家で昼食をとってから出かけよう」とは言ってはならない。まだその者が滞在者であるからだ。同様にあなたが家でサラーを短縮し、サウムを解くことは合法ではない。
しかし、もし町の境界線を少しでも越えたならば、まだ町の建物が近くに見えていたとしてもあなたが望むならばサラーを短縮し、サウムを解く権利があるのだ。
これはたとえ旅行を決意したとしても、人はその後何が起こるかは分からないからである。緊急事態が発生し、旅は中止となるかもしれないのだ。だから境界線を越えるまでは旅行者としての権利は発生しないのである。

では、人は空港において旅行の法規定を享受することが出来るだろうか?
これは空港の場所により、空港が町の中にあるか、外にあるかで変わってくる。
もし空港が町の中にあれば、あなたはまだ町の中にいるのだから旅行に関わる法規定は当てはまらない。
しかしもし空港が町の外にあるのであれば、旅行中の法規定が当てはまり、そこでのサラーは短縮でき、また集めることができる。
帰路においても同様で、町の中に入るまでは旅行者としての法規定があてはまることになる。

さて、旅行者にとってより良いのは、サウムすることか、あるいはサウムをとくことだろうか?

この件に関して、学者たちの見解は3つに分かれている。

サウムする方が良いという者たち。
理由は、サウムする方が、より早く自分に課された義務を全うし、またこれが預言者(彼に祝福と平安あれ)の行為だからである。

サウムを解く方が良いという者たち。これは預言者の「まことにアッラーは、反抗行為がなされることを嫌うように、許可されたことが行われるのを好まれる。」というハディースに因っている。つまり許可されたことを行う、ということである。

最後の見解は、それは旅行者の状況と降りかかる困難の状況に応じて異なる、という見解で、これがもっとも正しい見解である。何故なら、前述した2つの典拠を合わせたものとなるからである。

困難のない旅において、より良いのはサウムをすることである。
例えば、午後4時が飛行機の離陸時間で、日没までの残り時間がごくわずかである場合、サウムを続けるほうがその者にとってより良く、また義務の責任を果たすのにより簡単なのである。なぜならカダーを行うことには苦労が伴うからである。カダーは時間内に行われるものとは異なる。人は人々と共にサウムするのは簡単だが、一人だけでカダーを行うのは困難を伴うのである。その為、「私には前のラマダーンのカダーが残っているが、サウムしなかった。どうすればよいか?」という質問者が大人数出てくるのだ。丸1年あったにも関わらず、1人でのサウムであるが故に、「明日サウムしよう」「明後日サウムしよう」と先延ばしにしてしまうのである。
それから、これが預言者の行為であるということだ。アブッダルダーゥの伝承に「私たちは暑さの厳しい日に預言者と旅をしていた。私たちの中では預言者とアブドゥッラー・ビン・ラワーハ以外には誰もサウムしている者はいなかった。」というものがある。これは預言者にとってサウムは困難ではなかったということも示している。

次の状況は、たとえ少しであれ、旅の困難さがある場合である。このような場合、アッラーは許可された、より簡単なことが行われるのを好まれる。
((يريد الله بكم اليسر ولا يريد بكم العسر))
(2:185)

例えば陸路で1000kmの旅をファジュルと同時に始める場合などである。ひとによって困難の感じ方は違うが、そこに困難がある限り許可されたことを放棄する必要はないのである。

その者にとって非常に困難な場合、預言者はこう言った:
「旅行中のサウムは善行ではない。」
預言者自身が旅行中にサウムしていたのに旅行中のサウムは善行ではないとはどういうことなのだろうか?
預言者はいつこの言葉を言ったのだろうか?

預言者が旅行中、人々が気を失ったある男のもとに集まり、彼を取り囲んでいたので預言者は尋ねた。「いったいどうしたのか?」すると人々は「彼はサーイム(サウムしている人)です。」と言った。すると預言者は「旅行中のサウムは善行ではない。」と言ったのである。

つまり、このような状況下ではサウムを行うべきではなく、学者たちの一部は「このような者がこのような状況下でサウムすることは禁じられる」としている。

また預言者がマッカ開放の為にラマダーン中旅立った時、彼はサウムしていた。そして一部の人々は困難にも関わらず、預言者に倣いサウムしていた。この事が預言者に伝わると、彼は人々にサウムを解くように命じ、アスル後、自らミルクを持ってこさせ、それを飲んだ。アスルの後だったにも関わらず人々の困難の軽減のためにサウムを解いたのだ。すると彼の元に、困難にも関わらずサウムを解かなかった人々がいるという情報が届いた。すると預言者は彼らがイバーダを、サウムを行っていたにも関わらず、「彼らは反抗者たちだ。彼らは反抗者たちだ。彼らは反抗者たちだ。」と言った。

このことは旅行中のサウムが大変な困難を伴う人にとってはサウムは好ましい行為どころか禁じられた行為となることを示している。

この伝承の中で預言者はサウムしていたが、後でサウムを解いた。これは旅行者が昼間サウムを始めており、後でサウムを解いても合法であることが示されている。つまりサウムを解く場合には、一日の最初からでなくともよいということである。

逆の場合はどうだろうか?
サウムを解いていた旅行者が自分の町に到着した。彼は何をすべきだろうか?
学者たちの多くは、そのサウムに益がなく、カダーが課されるとしても、ラマダーン月の神聖さとサウムしているその土地の人々のことを考慮して、その日の残り、サウムすべきだとしている。

この件においては、これから述べる2つめの見解のほうがより正しい。
イブン・アッバースの伝承によると「その日の最初にサウムを解いていた者は、最後もサウムを解くべきだ。」とされる。これはサウムを解かなければならない生理中の女性に関しても言える事だが、「サウムを解き、飲み食いすることは合法だが、サウム中の人々の前ではなく」という意味である。



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2017年06月09日

2、サウムはタクワー(アッラーを畏れること)を学ぶ学校(続き)

そしてサウムとクルアーンは、審判の日にその主人を執り成す。

サウムは言う:
「主よ!私は彼に食べ物と欲望を禁じました。ですから私を彼の執り成しとして下さい。」
そしてクルアーンは言う:
「主よ!私は彼に夜の睡眠を禁じました。ですから私を彼の執り成しとして下さい。」
こうして至高のアッラーはこの2つを彼の執り成しとするのだ。

また、アッラーは、サウムを好み、頻繁にサウムする者たちの為に、特別な(天国の)門を用意された。
それが「アッライヤーン門」だ。

アブー・ウマーマ(彼にご満悦あれ)が預言者(彼に祝福と平安あれ)を訪れて言った:
「私を天国に入らせる行為を教えてください。」
すると預言者は:
「それと同様のものは無いとされるサウムをしなさい。」と言った。

また、サウムは貞節の学校でもある。
預言者(彼に祝福と平安あれ)は言った:
「青年たちよ、あなた方のうち結婚できる者は結婚しなさい。それは視線を下げさせ、貞節を守らせる。それが出来ない者は、サウムしなさい。それは彼にとって去勢のようなものである。」

この伝承は義務でもスンナでも、サウム一般に関してのことである。

ラマダーンが来たならば、それは偉大なる善行の季節、至高なるアッラーとの活況なビジネスの季節なのである。
「ラマダーン初日の夜には天国の幾つもの扉が開き、それが閉じられることはない。また地獄の幾つもの扉が閉められ、それが開かれることはない。シャイターンやジンたちは鎖につながれ、呼ぶ者が呼びかける:「善を望むものよ、近づけ。悪を望むものよ、遠ざかれ。アッラーのもとには業火からの解放者たちがおり、彼らの解放は毎晩なされる。」
アッラーがラマダーン月を我々の元に到着させ、我々をその月に関して受け入れられた人々として下さるように。

「ラマダーンにそのサウムの義務を信じ報奨を求めてサウムする者は過去の罪を許される。ラマダーンに礼拝の重要性を信じ報奨を求めてサウムする者は過去の罪を許される。」

ラマダーン月、しもべと主の道における追い剥ぎは多い。
ジンのシャイターンは鎖で繋がれたが、人間のシャイターンは残っている。
今現在、人間のシャイターンは、しもべと主の間の道を襲うべく、多く多種多様のメディアを通しての毒を広めている。だから彼らに呼応しないように警戒しなければならない。呼応したということはアッラーに反抗したということで、この月に損失者として出て行くこととなる。

預言者(彼に祝福と平安あれ)は説教台に上り、「アーミーン」と言った。それから二段目に上がり、「アーミーン」と言った。それから三段目に上がり、「アーミーン」と言った。
預言者の説教台は三段であった。
先のことについて預言者が問われると、彼は言った:
「ジブリールが私のところにやってきた。」
そしてジブリールはドゥアーし、預言者がアーミーンと応じた。
ジブリールは3つのことをドゥアーした:
「ムハンマドよ!ラマダーンにいたにもかかわらず、罪を許されなかった者、アッラーが彼を遠ざけ、業火にいれるように。アーミーンと言うのだ。」
預言者は「アーミーン」と言った。
残りの2つのドゥアーは、「あなたが述べられたにもかかわらずあなたに祝福祈願しない者」彼に祝福と平安あれ「両親のうち片親、あるいは両親とともにいるにもかかわらず、その親孝行により天国に入れられない者。アーミーンと言うのだ。」そこで私(預言者)は「アーミーン」と言った。

サウムが人がアッラーへを畏れることを学ぶ学校であるように、それはまた、このウンマが1つであるという現象の1つでもある。

預言者(彼に祝福と平安あれ)は言った:
「サウムとは人々がサウムする日で、フィトルとは人々がサウムを解く日である。」

人間はサウムすると、空腹を覚え、常に空腹を抱える貧者に想いを馳せ、ラマダーンだけではなく、常に彼らに同情するようになる。そして預言者の言葉を実感することになるのである。
「信仰者たちは、相互愛、互いへの慈悲、同情に関して1つの体のようである。体の部位1つが苦情を訴えれば、体全体が不眠と発熱を訴えるのだ。」

繰り返した伝承で、この話を締め括ろう。

「アーダムの子孫の行為全ては彼自身のものである、ただし、サウムを除いては。アッラーは仰せられた:『それはわれのもので、われこそがそれに報いるのだ。』サウムは盾である。あなた方がサウムする日、猥褻な行いをしたり騒ぎ立ててはならない。もし誰かがサウムする者を罵ったり戦いをしかけてきたならば『私はサウムしている。』と言え。ムハンマドの魂がその手中にあるお方に誓って、サウムする者の口臭はアッラーのもとではミスクの香りよりも良い。サウムする者には2つの喜びがある。斎戒明けの喜びと、主に見まえる時の喜びである。こうして彼は自分のサウムを喜ぶのである。」
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2017年06月04日

2、サウムはタクワー(アッラーを畏れること)を学ぶ学校

至高のアッラーは仰せられた:
((يا أيها الذين آمنوا كتب عليكم الصيام كما كتب على الذين من قبلكم لعلكم تتقون))
(2:183)
アッラーはそれによってしもべたちを罰する為にサウムを定めた訳では無かった。
((ما يفعل الله بعذابكم إن شكرتم وآمنتم))
(4:147)

それどころか、アッラーは英知ある者たちの内、最も英知あるお方であり、英知無くして何かを定めることはないのだ。
アッラーが命じたことを人間が行い、禁じたことを避けることにより、本人とアッラーの罰との間の盾となり、その中でアッラーを畏れることを学ぶ学校となるべくサウムは義務付けられた。

これは明らかだ。
あなたは雌牛章でサウムの諸規定に関して述べる最初のアーヤがタクワー(アッラーを畏れること)で終わり、
((كذلك يبين الله آياته للناس لعلهم يتقون))
(2:187)
このサウムの諸規定に関して述べる最後のアーヤの最後もタクワーで締めくくられているのを見出すだろう。

だからラマダーン月のサウムととともにアッラーを畏れることを学ばない者は実際のところその為にサウムが定められた英知を実現させていないことになる。

預言者(彼に祝福と平安あれ)は言っている:
「アーダムの子孫の行為全ては彼自身のものであり、善行はその10倍となる。ただし、サウムを除いては。アッラーは仰せられた:『それはわれのもので、われこそがそれに報いるのだ。』と。」

サウムの報奨は至高のアッラーの御許にある。
もしその報奨がアッラーの御許にあり、かれこそが寛大な者たちの内、最も寛大なお方であるのなら、あなたに何が与えられ、何で報いられると思うのか?

サウムする者は忍耐する者である。
((إنما يوفى الصابرون أجرهم بغير حساب))
(39:10)

全てのイバーダは見栄の為に行われる可能性があるが、サウムは別である。
それはアッラーの為のものであり、アッラー以外の為に行われることはない。
つまり、人はこのサウムというイバーダを自分を監視している誰かへの見栄の為に行うことは出来ないのである。
いったい誰がファジュルから日没までしもべとともにい続けることが出来るというのか?
たとえそれが出来たとしても、彼を出し抜いてサウムを解くことも出来るのだ。
もしその者が望めば、サラーの為のウドゥーの際、口をすすぐ時、監視者に見つからないように水を飲むことができるのだ。

サーイム(サウムする者)は何を避けるのか?
食べ物と飲み物、つまり本来はアッラーが合法とされた物事を避けるのである。
何故それを避けたのか?
至高のアッラーによる監視故、アッラーの為にのみ避けたのである。
それならば、アッラーが禁じられた物事はラマダーンであれ、それ以外の時であれ、放棄するのが当然であろう。
腹を空かせ喉が渇いた者、食べ物と飲み物を避けたにもかかわらず至高のアッラーが禁じたことを避けない者、アッラーがそれを見ることを禁じたことを目に、それを聞くことを禁じたことを耳に許す者、夜に昼に、秘密裏に公にアッラーに反抗した者、この者はサウムから利を得たのかだろうか?
サウムを行うことによる英知、つまりタクワー(アッラーを畏れること)を実現させたのだろうか?
答えは「否」である。

預言者(彼に祝福と平安あれ)は言った:「サウムする者の多くは、サウムから空腹と喉の渇き以外に何も得ないのである。」

彼は腹を空かせ、喉を乾かせたが報奨はどこに?
何も得なかったのである。

預言者(彼に祝福と平安あれ)は言っている:
「禁じられた言葉や行為や不道徳を放棄しない者、アッラーはその者が食べ物と飲み物を放棄することを必要とはしていないのだ。」

前述のハディースには述べられている:「アーダムの子孫の行為全ては彼自身のものである・・・ただし、サウムを除いては。アッラーは仰せられた:『それはわれのもので、われこそがそれに報いるのだ。』と。サウムは盾である。あなた方がサウムする日、猥褻な行いをしたり騒ぎ立ててはならない。もし誰かがサウムする者を罵ったり戦いをしかけてきたならば『私はサウムしている。』と言え。」

サウムする者は禁じられた行為や不道徳を避けるのである。

この伝承にある「私はサウムしている。」という言葉は声に出さずに言うべきか、あるいは公に言うべきか?

より正しいのは公に言うことである。
目の前の相手に「自分はやり返すことが出来るが、サウムを保つことが自分にそれを禁じるのだ。サウムを損なわないように、報奨が減ることの無いように。」と知らしめる為である。

サウムの徳は偉大であり、預言者の伝承にあるように、サウムはしもべが業火から身を隠し、アッラーの罰を防ぐ為の盾なのである。
posted by ターリブルイルム at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | サウム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする