2013年07月24日

アル=バカラ章の考察 その5


もしあなたに、「次の文章を完成させなさい。」と言ったとします。
・・・「もし幸せな人になりたかったら、(  )でありなさい。」
カッコ内に一語入れなさい。

…であれ。
…であれ。

正解は、(しもべ)でありなさい。

そう、「しもべ」です。
あなたはアッラーのしもべとなる為に、この地上に存在しているのです。
アッラーはしもべとする為だけに私たちを創造されたのです。

あなたのアッラーに対するしもべとしての性質が具現化されるたびに、
あなたは幸せになっていくのです。

『あなた方は、われが戯れにあなた方を創ったとでも考えていたのか。またあなた方がは、われに帰されないと考えていたのか。アッラーは、尊くて気高い、真実の王者である。高潔な玉座の主を置いて外には神はない。』(23:115−116)

『ジンと人間を創ったのは、ただわれに仕えさせる為。』(51:56)

そしてアル=バカラ章で、人間への最初の呼びかけが行われたのです。
『人々よ、あなた方、またあなた方以前の者を創られた主に仕えなさい。おそらくあなた方は畏れるだろう。』(2:21)

「イバーダ(崇拝行為)」とはどういう意味でしょう?
それは、「アッラーがそれをお好みになられ、それにご満悦される、外に現れる、また内に秘められるあらゆる行為と言動の総称」です。

「abadaアバダ」というアラビア語は、「服従した、従った、謙虚になった」という意味です。

「しもべである」とは、あなたの崇拝の対象があなたがそうあるようにとあなたに望むとおりに自分自身を形作っていくということです。

その対象が、あなたがこうあるようにと、ある方法で望む時に、あなたがそうあることなのです。

もし、あなたがしもべになったのであれば、アッラーに服従し、かれの命令と禁令に従い、
望んで、心からかれに服従し、あなたの創造主がお好みになられたことを喜んでするでしょう。

この表現こそが至高なるアッラーのご満悦を得る目的であり、この為にこそ、預言者たち(彼らに祝福と平安あれ)は使わされ、その為に天と地は創造されたのです。

それから、アッラーが人々に、かれを崇拝するよう呼びかけた時、その御言葉を『おそらくおそらくあなた方は畏れるだろう。』という言葉で閉じられました。

私たちは、アル=バカラ章の既に述べた考察の中で、「お導きは畏れる者たちへのもの」だと学びました。

私たちの元には今、以下のような構図が見えてきます:


イバーダ(崇拝行為)<<タクワー(畏怖)<<ヒダーヤ(導き)

アル=ファーティハ章で、アッラーが私たちにヒダーヤへと呼びかけた時、アル=バカラ章が私たちにそのヒダーヤへと導く為にやって来ました。そして、この「書(クルアーン)」が導きそのものであり、その導きはムッタキーン(畏れる人々)の為にあるのだと私たちに明らかにしました。それからタクワーへと到達する方法がイバーダなのだと、私たちに明らかにしたのです。

つまり、あなたがアッラーを崇拝すれば、あなたはかれを畏れ、もしあなたがかれを畏れたのであれば、かれはあなたをお導きになられる、ということです。

ですが、いったいどうやって正しい崇拝を実現させられるのでしょうか?

☆アッラーにご援助を求めてください。

☆正しい崇拝実現のために奔走して下さい。(アッラーにかれへの崇拝を助けてくださるよう求めなかったり、その実現の為の奔走や行為を伴った望みを持たなかったり、その他の努力や行動なしでいるのではなく)

☆崇拝することへの忍耐(あなたはアッラーのへの従順なしもべとなる為に、忍耐と努力を必要としています)

☆アッラーを崇拝すればするほど、至高なるアッラーによる監視を実現すること、これは「イフサーン(アッラーを崇拝するたびにあなたはあたかもかれを目にしているようであり、もし見えなくとも、かれはあなたを見ておられる)」の階位です。

☆それからアル=クルアーンの章と節全てが、あなたのアッラーへの崇拝実現を助けてくれます。全ての章がアッラーへの崇拝のある側面をあなたに教え、あなたのある面を抑制させてくれるのです。

ですから、アル=クルアーンをしっかりと掴み、そこにあるものを実行し、また、アッラーへの崇拝実現の恩恵を受ける為に、スンナに対してもアル=クルアーン同様に行うべきなのです。

そうすれば幸せな人になれるでしょう。

アッラーよ、あなたを念じ、あなたに感謝し、あなたを善く崇拝することに関して私たちをお助けください。
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2013年07月02日

アル=バカラ章の考察 その4


アル=バカラ章が、「導きの法則」を私たちに教えてくれるのだということに私たちは気づきます。

「導き」は誰にやってくるのでしょうか?

「畏れる人々の為の導きである。」とあるとおり、「畏れる人々」にやってくるのです。

「畏れる人々」というのはどういう意味でしょう?

彼らはアッラーに服従し、かれの命令に応え、禁令で述べられたことを避ける者たちです。
彼らの心が真理に応え、彼らの肉体が善行によって命令に応える人たちです。

これに対し、「彼らにとっては同じである。あなたが彼らに警告しようとしまいと、彼らは信じないのである。」とあるように、この章は、その者の心が閉じられている、他の人々についても述べています。

彼らは不信仰者たちです。
何故彼らは信じないのでしょうか?

何故なら彼らの心は閉じられ、同様に、彼らの聴覚と視覚には覆いが被せられているからです。
これらの器官は、私たちに物事を理解させ、「理解」という段階に達する為に諸知識を心に送り込むパイプのようなものだと私たちは認識することができます。

ですが、それらのパイプが故障すると「彼らにとっては同じである。あなたが彼らに警告しようとしまいと、彼らは信じないのである。」という状態になってしまうのです。

恐らくあなたは、「それでは何故彼らが理解する為の方法が故障したのですか?」と尋ねるでしょう。

その答えは、彼らの心がそれを望んだから、ということです。
彼らの心は腐敗し、真理も導きも望まないのです。
ですから、彼らが導かれないように、アッラーは彼らの聴覚と視覚と心を故障させたのです。

至高なるアッラーはあなたの心が望むものに対し、あなたに同意を与えます。
あなたの心が真理を欲すれば、あなたをお導きになられ、そうでない場合には真理を聞かず、見ず、要するに理解しないことへとあなたを助けるのです。

それからこの章は他の人々について述べて、彼らの心が病んでいると描写しました。
それは偽信者たちの心で、彼らは不信仰者たちと同様に真理を欲せず、大地を汚し、信仰を表明し、裏では不信仰を秘めているのです。アッラーは彼らのことをお導きにならず、「導きで迷いを買い、彼らは利益を得ず、また導かれた者ではない。」のです。

つまり、人々の種類と導きに対する彼らの状況は次のようになるわけです。

1、畏れる者たち・・・導きは彼らのためにある。
2、不信仰者たち・・・警告は彼らに意味を成さない。
3、偽信仰者たち・・・彼らは導かれたものではなかった。

●では、これらのことを学んだ後の「私」の役割はなんでしょう?
「私」は自分の心が心理と導きへと向かうように努力し、導きの原因となることに身を委ねることです。つまりそれは「タクワー(畏れること)」で、命令を実行し、禁令で述べられたことを避けるということです。

あなたがそのようにしていて、アッラーがあなたが真理に向かっているのをご覧になれば、それこそが導きへの道であり、あなたに更なる導きをもたらすのです。

そして私たちは、自分たちの心が先に述べられたような反抗する心や病んだ心の持ち主とならないよう、気をつけねばなりません。
何故なら、そうである限り導きはそれらの者たちのものにはならないからです。

●さて、これら3種類の人々について述べた後の呼びかけに注目して下さい。
「おお、人々よ」アッラーは人々よ、それら「全人類よ」と仰られたのです。

それからアッラーは人々に何を命じられたのでしょうか?

『あなた方とあなた方以前の者たちをお創りになられた主を崇めなさい。』

そうすれば、あなた方はおそらくどうなると仰せられたのでしょうか?

「おそらくあなた方はわれを畏れるだろう。」

と仰せられました。

つまり、お導きの道でもあり、主を畏れる方法の一つでもあること、それは主を崇拝することなのです。


posted by ターリブルイルム at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | アル=バカラ章の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする