2013年04月28日

アル=バカラ章の考察 その3


養育者が子供たちに、社長が社員達に、教師が学生達に、全ての統治者が民衆に最もして欲しい事は何だか分かりますか?

それが何なのか考えたことがありますか???

それは自分に命じられる義務を遂行する為に、服従・応答・帰依することです。

ある組織を想像してみて下さい。
そこのリーダーが、その組織にとって有益なことを命じましたが、スタッフたちは誰一人として彼に応えようとしません。
ある者は反対し、ある者は先送りにし、ある者は尊大に口論し、またある者は頑なに拒否する・・・そのような状況の組織はどうなってしまうのでしょうか?

私たちがアル=ファーティハ章でヒダーヤ(導き)を求めた後、真っ直ぐな道に導かれる為の方法を章の最初のジュズで顕著に見出すことが出来ます。

アル=バカラ章は、その導きの為の課程を紹介していく前に、章の最初のジュズでムスリムであるあなたに求められること、つまり全世界の主であるアッラーの命令に応え、服従することについて、話を繰り広げていきます。
最初のジュズで、5つの被造物と至高のアッラーの命令への応答・服従に関する彼らの状況が、私たちがそれらの例を通してアッラーに服従することの重要性を学ぶ為に述べられています。

●天使たち「サジダせよと命じられてサジダした。」

ところが

●イブリースは、「拒絶し、高慢で、不信仰の徒となった。」

●アーダムとハウワーは、「シャイターンが彼らを唆した。」それから「彼らは悔悟し、アッラーは彼らの悔悟を受け入れた。」

それから、

●イスラエルの民についていえば、アル=バカラ章の数々の節は、彼らの頑迷さ・彼らの大多数によるアッラーとその使徒への不服従・誤魔化し・計略その他の不服従の形を明らかにしました。

●イブラーヒーム(彼に平安あれ)は全世界の主アッラーへの命令に応じ、彼に服従することの模範的人物でした。「イブラーヒームの主が彼を御言葉によって試練にかけ、彼がそれを果たした」「主は彼に言った“帰依せよ”彼は言った“私は全世界の主に帰依しました”。」

さて、あなたがこれらを学んだ後、あなたの行為と主の命令へのあなたの対応はどのように変化するのでしょうか???

至高なるお方の御言葉を思い出して下さい。
「あなた方はアッラーに帰される日の為に、かれを畏れなさい。その時、各自が稼いだことは清算され、誰も不当には扱われないのである。」
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2013年04月26日

タイミング良く、雷


今日は朝からずっと曇り空だった。

主人の話だと、ファジュル前後にザァザァ降りの雨が短時間降ったらしい。

アスル前に、もう一雨来そうな雰囲気になったので、子供たちに窓の外を見て、雨がすでに降っているのか確認するよう促した途端、ピカッ雷と稲妻が光り、数秒後、遠からの雷鳴が轟いた。

雷が怖い次男M。
彼が窓の外を覗いた途端に稲妻とは・・・ふらふら
心臓バクバクだったに違いない爆弾

雷鳴の時のドゥアー
(『ムスリムの砦』http://www.islamhouse.com/p/45218参照)

「スブハーナッラズィー ユサッビフッラァドゥ ビハムディヒ ワルマラーイカトゥ ミン ヒーファティヒ。」
(アッラーに称賛あれ、雷はかれを讃えて唱念し、また天使たちもかれを畏れて唱念する。)
posted by ターリブルイルム at 06:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アル=バカラ章の考察(その2)


アッラーが「フダッリル=ムッタキーン」と、かれの御言葉の中で「ヒダーヤ(導き)」を約束した「ムッタキーン(畏れる人々)」たちの第一の性質とは、彼らが「ガイブ(不可視のもの)」を信じるものたちであったということです。

それは信仰は、2つの条件下でのみ、その信仰者を益するということです。

1つ目の条件は、それが不可視であること、つまり、あなたが信じているものは目に見えるものではないということです。

もし、私たちが天使たちを見ることが出来、彼らが私たちの行為を記録し、私たちの悪行を書き留めるのを目にしているのならば、私たちの信仰状態は異なったものであったでしょう。
私たちは善行を行うのに、より注意深くなり、悪行を行わないように、より警戒するでしょう。
ですがこれは、あなたの信仰が本物であるかを試す真の試練ではありません。

同様に、もし私たちがシャヤーティーン(シャイターンの複数形)を目にし、彼らが私たちを罪へとけし掛け、また私たちに悪行を行わせるためにそれを装飾して喜んでいる様子を目にしたのであれば、私たちは彼らをより警戒し、彼らへの不服従に一層の努力を払っていたことでしょう。

しかしながら、目に見えるものへの信仰は、私たちの信仰が本物であるかを試す真の試練ではありません。

あなたが不可視のものを信じているのであれば、あなたはアッラーを信じ、かれの天使たちの存在と彼らがあなたの行為を書き留めていることを信じ、天国と地獄の存在を信じ、預言者(彼にアッラーの祝福と平安あれ)と、彼が主のメッセージを確かに伝えたこと、そしてあなたには預言者に追従することが命じられているということを信じ、あなたの救いはクルアーンとスンナに則る事で、あなたがこれら2つのことにしがみ付いていないことにこそ損失があるのだと信じることです。

ですから、信仰とは不可視のものを信じるということなのです。

より分かり易くしましょう。

もしあなたが明かりのついている部屋にいて、あなたが人々に「これは明かりです。私はこれが明かりだと信じます。」と言ったとします。
周りの人々はあなたに、「あなたがその明かりを信じるのは当然でしょう。それはここにあって、あなたも私たちもそれを目にしているのですから。だから何だと言うのですか?!」と言うでしょう。

ですが、もしあなたが「私は天使たちの存在を信じ、彼らが私の行為を書き留めていることを信じます。」と言い、あなたにも私たちにもそれらが見えないということは、私たちが、ただクルアーンとスンナで述べられた情報を通してのみそれらを信じているのだということになります。そしてこの目に見えないものの信仰こそが、あなたを益するのです。

あなたの信仰があなたに益をなす2つ目の条件は、それがあなたの自由意思によるものだということです。

あなたが自由意志でアッラーとかれの天使たち、かれの預言者たちとかれの諸啓典と、アッラーがあなたにそれを信じよと命じたことを信じているということで、例えば何がしかの罰から身を守るために、強制的に仕方なく信じているのではないということです。

ですから、彼の人生の終わりに溺れて「私は信じた。イスラエルの民が信じた神以外に神はない。私はムスリム(帰依するもの)である。」と言ったフィルアウンの信仰に、アッラーは、『なんと、今信仰するのか。少し前まであなたは反抗していた。結局あなたは犯罪者の仲間であった。』と仰せられたのです。

この信仰は彼の役には立ちませんでした。

何故なら信仰の2つの条件が欠けていたからです。

彼は不可視のものを信じたわけではありませんでした。
彼はその時、罰を下す天使たちと罰を目にし、その為、彼は罰への恐れから仕方なく信仰したのです。

実際、あなたがクルアーンとスンナにしっかりとしがみ付けば付くほど、不可視のものへのあなたの信仰は増し、それによってあなたは、より多くの善行に励むようになり、そして悪行をより避けるようになり、そうしてあなたは成功者となるのです。

信仰の差とは、つまり私たちの間の行為の差なのです。
私たちの中で、クルアーンとスンナに、より則っている者は、不可視のものをより強く信じていて、そうでない者は、よりそれらへの信仰が弱いということです。

アッラーが私たちを有益なものとし、私たちの信仰心をより増やしてくださりますように。

(筆:熟考グループ)
posted by ターリブルイルム at 06:03| Comment(0) | TrackBack(0) | アル=バカラ章の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする